コラム~成蹊ラグビー

ボール

2012/09/24(月) 06:57

かれこれ20年以上も前のこと。
まだラグビーボールが革製の時代、それをピカピカに磨くのに苦労した。
擦れた皮革製品は本来は綺麗に光るものではない。
それでも、ひとつでも磨きが悪ければ1年生全体のバツ練は当然の掟。
私の大学時代、入学時は皮革ボール全盛で、卒業時はラバー製主流だった。
今思えば最後のボール磨き世代だったということ、光栄である。

皮革ボールの上級モデルといえばSCEPTREはmodel1000、CONVERTならば777。
こいつらを光らせるために、練習で渇いた口からツバを吐いては、小汚い手垢か消しゴムのカスみたいなものを量産した。ひたすら指先でこすり続ける純度の高い手仕事。
仕上げに軍手を使う派がいたり、あくまでベアハンドの手仕上げ派がいたり。
どこかのチームがバナナを使うと聞けば邪道と思いつつ試し、母親の使い古しのパンストすらも、恥ずかしげもなく手に巻いた。
ツバを吐きかけられようとも、ピカピカに磨かれたボール。
絶対に本望であったはずだ。

現在のような白いラバーボールがデビューしたのは1987年の雪の早明戦の頃であったように思う。それ以前にも皮革の白いボールはあった。おそらく昭和55、6年頃は、日も暮れればコンビネーションなどの練習には、妙にツルツル滑るメーカー製の皮革の白ボールが登場していたはずだ。

しかし、それより遡ること5、6年、昭和50年頃の世田谷八幡山。
ご存知、明治大学のグランド。
当時の東京の、いや全国高校ラグビーの雌雄を争っていた2チームは、多い日で1日に16ハーフをやっていたという。日も暮れてボールも見えない・・・知恵を絞った名将二人はボールに白いペンキを塗った。これが本当に最初の白ボールのはじまりである。

夕刻まで酷使されるためだけに、全身に白ペンキを塗られたボール。
薄暮のグランドの最後のハーフ4本くらいでその白い存在を明確にした。
本望であったに違いない。

その薄暮の八幡山でボールに白ペンキを塗っていた高校のひとつ。
その年、ボール磨きをやめた。磨く時間と、空気を抜く時間、また空気を入れる時間。それを励行することの不確定な寿命や卸値、個数と「練習時間」との関係を考えたらしい。
きっぱりやめた。その年全国優勝した。
決して磨いて貰えなかったけれど、チームが全国優勝した。
ボールは絶対に本望である。

さて、最近のとある県の高校の練習最中に目にした光景。
グランドのネットのむこうの茂みに、以前から放っておかれたであろうひとつのボールがあった。発見した監督は烈火のごとく怒鳴った。

「お前らぁっ! ちょっと来い! これでこのボールが本望だと思うか?!
ラグビーの道具はなぁ、本当に大切にしろ!!」

監督は高校時代、八幡山を走っていた。
明かせばボールに白いペンキを塗った名将の教え子であった。
雨の中、気付かれもせず放置されたボール。
絶対に本望であるはずはない。

ボールよ、本望か?
今はツバで磨かれることもなくなったボールへの愛情表現は、チームjが勝つこと。
そして、その存在を認識し決して紛失しないことだ。
実に簡単明瞭なことである。

たった今、ふと頭に浮かんだT先輩の顔。
1年生の時にグランドの隅から雨ざらしのボールが見つかると、バツ練習係であった1学年上のT先輩と、特定できぬ同期の放置犯が恨めしかった。
遠いようで近い20年以上も前の記憶は、ツバの擦れた皮革の香りと暗がりでのキックダッシュ。

改めて思う・・・やはりラグビーやってて良かった。